« 愛媛県知事が製作委員会会長の映画「船を降りたら彼女の島」、今治市(旧大三島町、旧宮窪町、旧伯方町、旧吉海町、旧大西町、旧上浦町)、八幡浜市(旧保内町)、松山市(旧松山市、旧中島町)、新居浜市、内子町など。 | トップページ | CMが映画になった映画「エバラ家の人々」、ロケーション協力とプロダクトプレイスメント(PP) »

2008年1月 8日 (火)

プレスコード(報道遵則)の検閲が終了した1952年の広島でほとんど全てロケーション撮影された映画「原爆の子」

Dsc02959

(写真は数年前に撮影した原爆ドーム)

映画「原爆の子」(新藤兼人 脚本・監督)

出演は、乙羽信子、滝沢修、宇野重吉、細川ちか子、清水将夫、東野英治郎、北林谷栄、小夜福子など。

協力出演は、原爆の乙女たち、その他、ヒロシマの少年少女、学生・市民・勤労者ほか。

1955年に英国アカデミー賞の国連賞、また第18回チェコスロバキア国際映画祭で平和賞を受賞。

近代映画協会と劇団民芸が資金を出した共同作品。

日本は戦後、6年8ヶ月もの間、占領されたことは周知のことである。

だが、その間、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策としてプレスコード(報道遵則)があったことは、今日、あまり語られていない。

このプレスコード、1945(昭和20年)年9月19日にGHQが出した覚書なのだが、特に、原爆に関してはきびしい規制が加えられ、1952(昭和27)年4月の日米講和条約の発効まで約6年8ヶ月続いた。

そのプレスコードの検閲が終了した1952(昭和27)年に撮影がスタートし、同年の8月6日に映画「原爆の子」の完成試写会が行われたという。(広島フィルム・コミッションの知人による)

新藤兼人監督が、1952(昭和27)年に自主制作という形で作品を完成させたのは、そういった社会的背景があってのことであり、そういう意味では、瓦礫の中で見つけたジャーナリズムの宝石のような映画。

協賛は、

広島電鉄(株)瀬戸内海汽船(株)、広島市の国泰寺中学校、西能美島(現:江田島市、旧:沖美町)の三高中学校、広島の新生学園、日本私鉄労働組合総連合

当時は、”協賛”という言葉をつかっている。(今日の”協力”といったところだろうか。)

(広島フィルム・コミッションによると、国泰寺中学校では、中学校の生徒も含めて子役のオーディションが行われたという。また、映画に出てくる瀬戸内海の島は、三高中学校のある西能美島。)

後援は広島市、ヒロシマピースセンター

原作は、広島の原爆を体験した子供たちの作文集(「原爆の子 広島の少年少女の訴え」(長田新編)。1951(昭和26)年に岩波書店より刊行。)で、それをもとに新藤兼人が脚本を書いている。

1952年の広島でほぼ全てがロケーション撮影されていて、実際に被爆した方々の姿や復興前の瓦礫の広島が映像で残っている。

「広島平和記念都市建設法」(1949(昭和24)年8月6日公布)によって建設されることになった広島平和記念資料館(1951(昭和 26)年3月着工)も、その建築現場がロケーション撮影の現場となっている。

また、「人影の石」もまだ資料館の展示物となってはおらず、映画では、実際の現場(爆心地から260mの紙屋町)が映っている。(後に、住友銀行広島支店から寄贈されたのだろう。)

このように、焼け野原となり瓦礫が残る広島でオールロケーション撮影された映画なのだが、広島フィルム・コミッションの知人によるといくつか例外もあるそうだ。

例えば、教会で少女がベッドで寝ているシーンは東京のセットで、寝ていた少女は広島の少女。(現在もご健在とのこと)。また、その少女の実家の旅館(今はない)は撮影スタッフやキャストの宿泊所として使われたという。

それから、火事で焼けてしまうお祖父ちゃんの小屋は、広島城の近くの草ッ原の草を刈って、そこにオープンセットの小屋を建てたそうだ。

「(広島フィルム・コミッションが)地元で関連する映画を上映する映画祭を立ち上げ、実行委員と一緒にあれこれしている中で掘り起こされたお話です。」とのこと。

地元ならではの貴重なお話で、広島フィルム・コミッションの活動がこういったかたちでも活きている。

Dsc02961

写真は、数年前に平和記念公園で撮影したもの。

広島平和記念資料館が写っている。

|

« 愛媛県知事が製作委員会会長の映画「船を降りたら彼女の島」、今治市(旧大三島町、旧宮窪町、旧伯方町、旧吉海町、旧大西町、旧上浦町)、八幡浜市(旧保内町)、松山市(旧松山市、旧中島町)、新居浜市、内子町など。 | トップページ | CMが映画になった映画「エバラ家の人々」、ロケーション協力とプロダクトプレイスメント(PP) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: プレスコード(報道遵則)の検閲が終了した1952年の広島でほとんど全てロケーション撮影された映画「原爆の子」:

« 愛媛県知事が製作委員会会長の映画「船を降りたら彼女の島」、今治市(旧大三島町、旧宮窪町、旧伯方町、旧吉海町、旧大西町、旧上浦町)、八幡浜市(旧保内町)、松山市(旧松山市、旧中島町)、新居浜市、内子町など。 | トップページ | CMが映画になった映画「エバラ家の人々」、ロケーション協力とプロダクトプレイスメント(PP) »