« 「長崎ぶらぶら節」のロケ地を訪ねて2 | トップページ | 映画「るにん」のロケ地へのこだわり »

2007年4月21日 (土)

八丈島を舞台にした映画「るにん」

八丈島を舞台にした映画「るにん」のDVDを見た。江戸時代に八丈島は流刑地となったのであるが、その八丈島を舞台にした映画で、なんともせつない映画だった。

そのストーリーについては、映画「るにん」公式サイトを見てほしい。奥田瑛二監督の偉才が発揮されたすばらしい映画であった。

さて、黒潮の本流を黒瀬川(くろせがわ)という。私は何故か、この黒瀬川という言葉を聞くと、ただそれだけで心がざわめいてくる。

映画「るにん」では、その黒瀬川がはっきりと映っていた。

黒瀬川は八丈島と御蔵島の間を、通常は北東方向に流れているのだが、7月頃には南の方に降りてくる。普段の明るく青い海よりも色の濃い、深い藍色をした大河の流れが八丈島にぶつかるのである。

ちなみに、古くは、黒潮のうち八丈島と御蔵島の間の約80kmを「黒瀬川」、御蔵島と三宅島の間の約20kmを「海暗(うみくら)」と呼んでいた。濃い藍色をした大河が島々の間を流れるように見えたからそう名付けたらしい。

そして、その黒瀬川は早さが秒速約2m(時速約'7km以上、資料では時速約13km以上という記述もある)にもなるというから、現代のようなエンジンを装備した船がまだ無い時代には、それを横切ることは至難の業であったのだろう。

そういうこともあってか、かつて八丈島は「鳥も通わぬ」といわれたようで、江戸時代には流刑地になったようである。

調べると、その流刑地としての歴史は、関が原の戦いで敗れた豊臣方の大名である宇喜多秀家が、慶長11年(1606年)に12名の一族や家臣と一緒に流されたことからその流刑地としての歴史が始まったようである。

東京学芸大学・大石学教授の「『るにん』と八丈島」を読むと、流刑地としての始まりである慶長11年(1606年)から、その終わりの慶応2年(1866年)までに八丈島へ流された流人の数は1804名であったらしい。(別の資料によると、幕府によって1862人が流罪となって八丈島にやって来たという記述もある。)

また、八丈島には、大賀郷、三根村、末吉村、中之郷、樫立村の5つの村があり、天保11年(1849年)当時、島民は6619人(男性が2834人で女性が3785人と何故か女性の方が多い)で、流人は235人であったという。言い換えれば、当時6854人が八丈島で暮らしていて、島民28人に対して流人1人の割合であったようである。

ところで、私も数年前、八丈島に仕事で何度も通ったことがある。

その時、現地で、「流人たちは島で、ある程度自由に暮らしていた。流人は島民を構成員とする五人組の扶助と監視のもとで生活していた。」などと聞いていたので、

「それなら、南の島で意外に流人たちは楽しく暮らしていたのではないか。楽園で帰りたくなかったのではないか。」などと単純に考えていたのだが、映画「るにん」では全く違っていた。

主人公の松坂慶子が演じる豊菊は、「こんな汚れた体で、こんな島の土になりたくない」といい、島を「ここは鬼ヶ島(おにがしま)」と毒づいていた。そしてただただ、いつか江戸に帰ることを夢みながら悲惨な暮らしをしていた。

Dsc01239

八丈島のふるさと村で撮影。「るにん」のロケ地の一つとなっている。

Dsc01238

同じく「ふるさと村」付近で撮影。玉石垣が残っている。映画では、流人たちが島での掟を申し渡されるシーンなど、代官がらみのシーンで、このような雰囲気の場所が使われていた。「当人勝手次第に渡世すべきこと」などと流人たちは言い渡されている。

|

« 「長崎ぶらぶら節」のロケ地を訪ねて2 | トップページ | 映画「るにん」のロケ地へのこだわり »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 八丈島を舞台にした映画「るにん」:

« 「長崎ぶらぶら節」のロケ地を訪ねて2 | トップページ | 映画「るにん」のロケ地へのこだわり »